とまれかうまれ、とく破りてむ!

行き場を失った物語の墓場

リンドウの夜想

 

 

人生の中にはどうしようもないことが数多くある。基本的に私にとっての物事というのは認識する頃にはどうしようもなくなっている。

 

そう、どうしようもなかった。

 

 

彼女がその白い棒を美味しそうに咥える様子は子供がキャンディーを舐めているのと大差ないなと私は思った。

「そんなにおいしい?ソレ」

「うん、おいしい。とっても甘いんだよ。コレがなきゃ私はダメになる」

「ソレがあるからダメになったんでしょ」

全く、と私は溜息をついた。私が吐き出す白い息は冬限定の水蒸気だが彼女の口から漏れる吐息は毒を孕んだ黒い白煙だ。

「でもこの匂い好きなんでしょ?」

彼女はカラカラ笑いながら私に向かって煙を吹きかけてくる。私はそれを振り払えない己の弱さを呪った。窓の奥から覗き込んでくる煙たい夕焼けが染みて、思わず私は目を瞑る。

「ほんと変なの。匂い好きなら吸えば良いのに、ほら」

これ、ほんとに甘いんだよ~と言う声に促されて薄目を開くと彼女は火のついたそれを私に渡そうとしていた。危ない。

「それとこれとは違うって何度も言ってるでしょ。私は吸わない。そもそも、目の前で吸わせてあげてるだけでも感謝してもらわなくちゃいけない立場よ?」

窓の外から吹き込む風はこの身を切り刻もうとしているかのように鋭く、冷たい。一月の夕暮れだというのに、私たちの会話のほかに物音一つしないこの白い部屋には空調の類すら備え付けられていなかった。

「コレを知らないまま死ぬのはもったいないって。私みたいな人間ですら日々に鮮やかさを感じられるようになるし嫌なことがあっても頭の中で煙が隠してくれる。前時代的だの健康を損なうだの言ってるのは恵まれた人ね。そういう人たちが妬ましいとは感じないけど、自分がいらないからって他人にまで不要論を押し付けるのはナンセンスよ」

「またそんな卑屈なことを言って。毒を吸わされるか詭弁を吐くかしかできないあなたの口がかわいそうになってくるわね」

「ひどーい」

「それに、毒の味に満足したからってそう簡単に死なれると困るんだけど」

「素直にさみしいって言えば?」

「私はこれでも医者よ?感情論を抜きに患者には生きてほしいわ」

この隔離施設には元から医者は一人しかいなかったが、今となってはもう患者も一人しかいない。難病を患った彼女たちであったがその最期は皆笑顔を絶やすことはなかった。この施設は辛く苦しい闘病生活のその一歩先にある。あるいは私は殺人者とも呼べるのかもしれないと昔はよく思い悩んだものだ。

「立派なことを仰っているけれど、ならどうして私からコレを取り上げないの?」

「信号が少し赤いくらいで止まるなんて面白くないでしょ」

「私、信号なんて見たことない」

「...あなたを愛してるからよ」

「.........そう」

夕日が沈み、空が赤と青を綯い交ぜにしたようなあの不気味な色になっていた頃、しばしの静寂が私たちの元無菌室を支配した。

「先生、私も【時間】なんだね」

まっすぐに私を見つめる彼女の目は煙越しに見ても一点の曇りもなかった。その双眸には得体の知れない感情の渦がぐるぐると輝いていたがそこに恐怖らしきものは見当たらなかった。

「不思議だよね。近くでみんなの最期を見すぎたせいかな。最近、【そろそろ】だなって直観が湧いてきて、それが外れているとは到底思えないんだ。先生もそうなんでしょ?」

私は彼女の言葉を否定できなかった。この施設で暮らして数年、ついに私たちは死の足音が聞こえるような錯覚に陥るほどに繊細な感覚を手に入れているような気がしていた。その感覚は昨日か今日がその日だと私に告げていた。

「今日なのかも。先生、私、怖くはないんだ。さみしくもない。向こうには友達がいっぱいいるんだから」

「そうね。再会のお土産に思う存分あなたの好きな箱を持っていくと良いわ」

「それ最高。何カートンあれば足りるかな」

「嫌がる子に強制だけはしないって約束して」

「しないよ。約束する」

夜が降りてくる。いつのまにか紫色に染まった星空は彼女を優しく見守っているようだった。その夜はきっととても寒かったのだろうけれど、楽しい話に花を咲かせていた私たちは寒いだなんて一言も言わなかった。本当に、驚くほど暖かったから。夜は深くなる。どこまでも紫色は深くなる。満天が彼女を包みこむ。彼女の手が私の手の中で鼓動を示す。夢を見ているようだと彼女は言った。ありがとうと彼女は言った。またね、と彼女は言った。私はこの夜を終わらせてたまるかと思った。

 

 

朝が来ても目を覚まさない彼女を前に私は驚いたり嘆いたりはしなかった。

「おつかれさま。...よく頑張ったね」

彼女の頭を撫でようとしたところで私は自分の手が動かせないことに気がついた。とっくに冷たくなってしまった手が私の手を握って離そうとしなかったからだ。

「なんだ、やっぱり少し怖かったんでしょ」

私は丁寧に彼女の手をほどいて、再びその手を握りなおす。大丈夫だよ。言い聞かせるように呟いたその言葉は早朝の晴天に吸い込まれていった。その空はどうしようもなく青かった。

 

 

闘病時代以前の彼女については引き継ぎの際のカルテでしか知らないけれど、その苦労と努力は凄まじいものだった。普通の子供が耐えられるはずのない苦しみを前に彼女は10年近い年月を心折れることなく過ごしてきていた。そんな彼女が私の【箱庭】に移ってから一番初めに発した言葉は今でもよく覚えている。

「先生。私、タバコが吸いたいの」

彼女は肺を患っていたため当然そんなものは渡せない。ただ、カルテから読み取れる彼女の消費的な【生】への憧れも理解できた私は、知人に頼み特注でタバコ型の砂糖菓子を手に入れた。火をつけると焦げたような煙が出るがその正体は砂糖。味は当然甘い。何も言わず彼女に渡すと彼女はとても喜んでくれた。さすがに本物じゃないことくらいは分かっていたとは思うけれど、ついに一度もそのことについて私に質問することはなかった。私たちは二人とも、それが本物であるかのように振舞い続けた。

 

 

身寄りのなかった彼女のお墓を作っているうちに日中は終わってしまっていた。夜になって私は煙たい自室で打ちひしがれていた。

「ほんとはね、私こそこれがなきゃダメなんだよ」

空の彼女に向かって私は【本物】を掲げていた。一人でも患者がいるときは吸えなかったその煙で二つしかない肺を満たし、生を消費し謳歌する。とうとう終わってしまったのかと私はどうしようもない感情に苛まれていた。

「そう、どうしようもなかった」

こぼれた弱音を煙は煙に巻いてくれる。ただ煙だけが、私を巻いてうやむやにしてくれる優しさを持っていた。優しさからは焦げた砂糖の香りがしたような気がした。懐かしい気持ちが込み上げてきて、私はただひたすらに毒を吸い込んだ。

 

あの場所で、彼女は確かに紫煙を燻らせていた。

『洛中百鬼夜行劇』 第5章「鴨川ポロロッカ」

三条大橋午前二時。西岸の広場から酔っ払いたちが三々五々帰っていく頃、大橋の欄干にもたれ掛かるようにして川の音に耳を傾けていた鳥羽は、東岸の方から川の様子を眺める怪しげな男を発見した。

「あれは...」

鳥羽は目を凝らしてその男を見てみると、なんと見知った顔だった。名前は水藻(みなも)。鳥羽や外面とは同期として大学に入ったが、彼らが1回生の頃に起こったとある事件の首謀者として大学から身を追われ今は住所不定自由の身として京都の架空を遊泳しているワケアリの異分子だ。趣味は洛中の探窟とは本人の弁であり、いつ何時も地に足つかない生活をしているが、人間社会からドロップアウトした割には件の魔境【バターナイフ】にすら所属していないというはぐれ者の中のはぐれ者である。かつて鳥羽は水藻に麻雀を教えたこともあり、彼が退学してからも折を見ては酒を呷るほどの仲であった。鳥羽は声を掛けに橋から降りようとしたが、ちょうどその時水藻が川の方へ移動した。一体何をするのかと物陰に潜み様子を見ていると水藻は川から何かを引っ張り上げた。

「人間って意外と重いのな。なぁおい、しばらくぶりじゃないか。隠れてないでコレ手伝ってくれよ」

「あ、あぁ...」

鳥羽は不意に声を掛けられ驚きながらも水藻の方に歩み寄り運んでいるソレに目を遣った。

「...ソレは何なんだ?」

「人間と言っていいかは分からんが、まぁ人間としか言えないから人間だろうよ。心配しなくても生きてはいる」

水藻は鳥羽に肩を借りつつ川の中から正体不明の人間を引き上げ砂利の上に転がした。白目を剥き泡を吹いているものの、どうやらソレは人間の男であるらしいことが辛うじて分かった。

「俺はバターナイフにこいつを引き上げる仕事を頼まれた」

「水藻、お前バターナイフに入ったの!?」

「まさか、バイトだよバイト。荷運びは割が良くってな。あんな危険集団に同類視されるのはごめんだが、金になるなら話は別だ。知っての通り金銭面は苦労しててね。そういうお前こそ怪物どものところで掃除を任されてるらしいじゃないか」

「できることなら関わりあいたくないよ。ただ偶然あいつらの騒ぎに巻き込まれることが多いだけで...。それに下手に角を立てるわけにもいかない事情がある」

「あんなろくでなし連中に弱みを握られてるのか?泣かせる話だ」

「そんなことよりこのずぶ濡れ男だよ。見ない顔だけどこいつはあそこの関係者なの?」

鳥羽はバターナイフに気に入られているためにしばしば四条深奥の酒の席に呼ばれることがあり、そこで会う構成員の怪物たちともそれなりの面識があった。しかし今目の前で意識を失っている男には見覚えがなかった。

「こいつは今日来たばっかりの新顔らしいが詳しいことは俺も───────!?!?!?!!?」

水藻が言いかけたところで泡を吹いていたはずのずぶ濡れ男が突如体を起こし狂ったようにその場で暴れだした。

「コヒス!!!コス!!!ホス!!!バ、バ、バイフ.........フス!!!」

人語とは思えない謎の呪詛を月下に叫びながらソレは砂利の上を猛獣のごとく這い回り周囲を一瞬で制圧した。

「バ、バ、バター、コヒス!!!!!テンケーーーイ、ショス!!!!」

猛獣は颯爽と川の方へと戻ったかと思うと水中に一度潜って行き水底を蹴ったのか恐るべき勢いで水面から飛び出し遥か上空で威嚇のようなポーズを月明かりに映してからやがて水面に打ち付けられ辺り一帯に軽いスコールを引き起こした。命の危険を感じた鳥羽と水藻はひとまず距離を置くことにした。

「おい、何だアレは」

水藻は聞いていないと言わんばかりの驚愕の表情であった。一方鳥羽は慣れたもので、早急に対応手を打っていた。

「もしもし、【怪物】。三条で暴れているUMAについて心当たりはない?」

鳥羽が電話を掛けた相手は【名前のある怪物】。組織【バターナイフ】でそれなりの悪名を響かせている彼ならば何か事情を掴んでいないかと鳥羽は考えたのだった。

『アァ、もう三条まで流れてったのかw ソイツは貴船で捕まえた天狗の末裔だよ。山奥で野営できる場所を探してるときにソイツが現れて、バターナイフに飲み比べを持ち掛けてきたんだが、ニンゲンだったら10回は死ねる量の酒飲んだところでバターナイフが一回死んで勝負はついた。だけどバターナイフは一回死んだ程度じゃぁ死なない。勝ったと思って油断したのか意識を失っていた天狗をバターナイフが鴨川につながる用水路に流したのが3時間前の話だ』

「は?」

あまりの真相に今度こそ鳥羽も面食らった。どうやら水藻が回収を頼まれたのは人間ですらなかったらしい。

『バターナイフもソイツを偉く気に入ったっぽくてな、誰かに回収を頼んだっつってたけどお前だったのか』

「...」

鳥羽はもはや自分ではないと説明する気も失せていた。その程度のこと、今目の前で暴走している異形の存在に比べたら些末すぎると思ったのだ。

そうこうするうちに天狗と称された獣は思い出したかのように背中から猛々しい羽根を生やし北方を目指し水藻と鳥羽の前から飛び去っていった。道中、天狗は川沿いに展開されているそれなりに格式高そうな店の屋根をその強靭な羽で削り剥がすなど破壊の限りを尽くし、生成した残骸を水場に投げ込み続けるうちに丸太町のあたりで鴨川はその流れをせき止められ、畏れを為した洛中随一の一級河川は轟音を立てながら逆流を始めた。

 

 

 

 

翌日。水藻はバターナイフに呼び出されていた。

「おまえ、ちゃんと捕まえんかい」

天狗の暴走と逃走により水藻のバイトは業務失敗になり当然報酬は支払われなかった。水藻は『川からの引き上げという当初の依頼は達成していたのだから報酬を寄越せ』という屁理屈を思い浮かべたが、すんでのところで彼の生存本能が守銭奴精神に打ち勝ったために余計な傷を負わずに済んだ。

「すみません、まさか対象が天狗だとは思わず。ですが何とか捕まえられたんですね...」

逃したはずの天狗だったが、いま水藻の前にはバターナイフ、【名前のある怪物】と並んで昨晩の天狗が順に並んでいるというパンチの強すぎる光景が展開されていた。

「天狗...??アァ、確かにこいつは鞍馬にいたが、俺ァ1000年前から天狗程度に酒で負けたこたぁねェよ。まぁこれだけ泥みてェに酒が飲めるやつもお互いいねぇもんだから多少殺し合いはしたけど仲良くなってな。こいつの正体は天狗じゃねぇ、アレだ、なんだっけか」

バターナイフはその巨体を丸めるようにしながら頭を抱え必死に名前を思い出そうとしているが血の代わりに酒が体内を巡っているとまで噂される魔人は一度忘れたものを思い出すことはまずない。静寂を破ったのは昨晩の異形生命体であった。彼はスッと息を吸い込み、溌剌と自己紹介した。

 

 

「モケーレ・ムベンベです。よろしく」

 

 

ja.wikipedia.org

ようせいさんの ざだんかい

----------------------------------------------------

 

「どうしようもなかった?」

 

「なにもしなかっただけ」

 

「かてきん せんにん?」

 

「せきにんてんか」

 

----------------------------------------------------

 

「さんそおいしい」

 

「なにもかんがえない、ゆかいのひけつ」

 

「へいばようのひとたちみたいな?」

 

「まさにしこうていし」

 

----------------------------------------------------

 

「じゅげむじゅげむのはんせいかい」

 

「なぜあのようななまえです?」

 

「かんがえなしというかんがえかた」

 

「どしがたいじゃちぼうぎゃく」

 

----------------------------------------------------

 

「ほし、すきです?」

 

「すきだらけ!」

 

まんてんのかいとう?」

 

「こうげんれいしょくすくなしじん」

 

----------------------------------------------------

轟く言霊

「歩かなければ棒にも当たらん」とは祖父の言葉だ。祖父が私と話すとき、最後はいつもその言葉で〆られたのでそれは一言一句違わず私の脳裏に刻まれた。特に深い意味があったわけではないだろうが祖父はきっとよく歩きよく棒に当たった人生を送ったのだろう。

 

と、昔は思っていたがよくよく考えると祖父というのはその人生で一度でも挫折したことがあるか怪しいというような人だ。勉学では友達から替え玉受験を頼まれ鹿児島オ・サール高校初代首席入学を果たしたりスポーツでは発足したばかりのJリーガーになってみたり務めては四菱重工のブレーンとなったりの恐るべき伝説を残してきた祖父の人生は歩くと呼ぶにはいささか慧敏すぎる。孫である私にことあるごとに発していたその言葉は本人の経験から来る教訓ではなさそうなのだ。それではその祖父の口癖はどこに由来するのか、と考えると彼の娘であり私たちの偉大なる母親であるその人に辿り着く。

 

母の兄(私にとっては叔父にあたる)が祖父譲りの万能体質であったのに対して我らが母はのんびりとした性格で勉強も運動も苦手であった。小学校に入る頃にはその両方に向いてないことを祖父も叔父もとくと理解せざるを得なかった。何もできない母に家庭内でつけられた渾名は『パー子』である。およそ愛称には聞こえないが母は全く嫌がりはしなかったそうでむしろ自分らしいとニコニコしていたそうだ。祖父や叔父は完全に面白がっていたように思えるがここで動いたのが祖母である。いつの時代も母とは慈愛の化身であり母という概念が二乗された祖母というものは慈愛そのものであって然るべきであろう*1。その祖母はパー子こと母に対して芸術の道を差し出した。祖父は「パー子にできるわけないだろう!がはは」と大爆笑したが祖母はこれを一蹴。祖父を怒鳴りつけ説教し紆余曲折の末相当な値が張るであろうグランドピアノを購入させた。天啓あるいは祖母の怒りが天にそうさせたのか、母は音楽に才覚があった*2。ピアノ教室に通いめきめき上達した母は音楽推薦で大学にまで上り詰め私の父と出会うまではピアノの先生や音楽教師をしていたらしい。人は誰しも(比較的)得意分野を持っているのだからその可能性を模索してどうする、何にせよチャレンジが大事だぞという祖父の金言だったのだろうか。

 

どうやらそれも違うのではないか。そもそも棒に当たるとは失敗のことである。母は音楽という試みを行う前に数多くの失敗を重ねているので言われずとも棒に当たり散らしている人なのだ。『棒にも当たらん』という反語に騙されて『棒に当たることを絶対的善とする』のは誤解であろう。ここでの衝突は相対善である。これは地蔵の如く座して100年を貫く人間よりあれこれやってみて失敗をする人間の方がまだマシだと前者を批判する言葉だ。さて前者に該当する祖父の周辺の人間は...。

 

 

私であることに気がついたのは24歳の頃だった。祖父が亡くなり彼の言葉を別れの席で思い返している時、雷に打たれたように私はそのことを理解し硬直した。棺の中からすらも祖父は私に繰り返す。私が聞かされてきた言葉なのにいざ私に向けられた言葉と知るや否や、私は耳を塞ぎたい気持ちに駆られた。だが線香の香りが否応なく私だけへの遺言を運んでくる。

 

「歩かなければ棒にも当たらん」

 

積極的な姉と比べ極めて保守的な私はいつも誰かの足跡を正確になぞってきた。学生時代は姉の後を追いかけ続け、やがて知識を身に着けた今は赤の他人すら模倣の対象とするようになった。それが安泰だと考えたからだ。私は今、私が考える『私の殻にはまるべき私』を他の人たちの何かをふんだんに取り入れ構成しているに過ぎない。何一つ自ら事を為していない。動いていない。歩いていない。故に棒には当たらないが棒にすら当たれない。

しかしそれで良いのではないか、平穏無事の何が悪いと私は焼香をすりつぶしながら祖父に問う。

 

答えは二度と帰ってこない。

 

通夜の晩、棺の前から一刻たりとも離れず祖父と会話を試みた。無論お互い言葉を発することはないが眼前に彼を見つめていると何か霊的なものが―――私は無宗教の立場だが―――語り掛けてくれるのではないかと期待せざるを得なかった。無益な時間と分かっていながらその場を動けなくなっていた私を心配したのか、夜も深い頃に姉がやってきた。

「あんた、おじいちゃんっ子だったもんねぇ。いつもおじいちゃんと一緒にいて」

姉は決して間違えない。この場面、この状況でも会話の切り出しは軽妙だった。

「そうだったかな」

ただでさえ眠気で思考がまとまらない上に疑問の煙で頭が曇っている私は適当な相槌しかつく脳がない。

「そうだって。あんまり一緒にいるもんだから父さん嫉妬しちゃってたよ」

「あはは、そうなんだ...」

「まぁ、じいちゃんは長生きしたよ」

私は姉の紡ぐ無難な会話に妙な反感を覚えた。

「...そんなことよりさ」

私がそう言うと姉は虚を突かれたような顔をした。長い髪がゆらゆら揺れている。

「姉さんは『歩かなければ棒にも当たらん』って言葉、聞き覚えある?」

唐突に何を言ってるんだと思われるかもしれないがこの姉に限っては何の配慮も必要ないことを私は理解していた。【上手に】配慮をするのは姉の役目だ。

「あるよ。じいちゃんがいつも私に言い聞かせてきた言葉だもん。今だって頭の中で聞こえてくる。でもそうか、あんたも聞かされてたんだ」

何だって?この『自分が歩いたところが道になるのだ』と言わんばかりの威風堂々たる人生を送ってきた姉にも同じ言葉を言い聞かせていたのか?

「姉さんはその言葉についてどう思ってんの」

「そうだなぁ。正直昔は何するにしても私の真似してばっかのあんたのことでしょって思ってた。でもそれなら何も私に言う必要ないでしょ?アレは正真正銘、私に向けられた言葉。自分本位に生きてしまう私を窘める言葉に聞こえるわ。道を、私じゃない他の誰かが作った道を歩いてみなさいってね」

姉は私と全く異なる解釈をしていた。傲慢だと思いつつも祖父が姉に言い含めるとしたらそういう理由なのだろうと私も納得したのでとやかく言うこともなかった。私には姉を咎められない。

「姉さんへの言葉の意味は分かった。それなら私に向けられた言葉の真意はどこにあると思う?私は自分の生き方を間違っているとは思わない」

そう言うと姉は声を押し殺して笑い始めた。何がおかしいのか。

「ふ、ふふ、あんた本気で言ってんの?そんなの当たり前じゃない、私だって私の生き方が間違ってるなんて思ったことないしこれからもそんなことあり得ないわよ。人は自分が生きたいようにしか生きれないのにどうして生き方を自己否定するっていうの?じいちゃんは私たちを否定したいんじゃない、ただ道を示していただけ。私たちが思うがまま、成るがままである他にも素敵な生き方があるんだって」

虚飾だ、と思った。そんな綺麗事で収拾をつけられてたまるもんか。

「それは、姉さんが否定されることに耐えられないからそう思っているだけ。じいちゃんはきっと姉さんのワガママを直せって言いたかったに違いないんだ」

適当な言葉を投げるしかない。もう煙で頭がいっぱいなんだ。

「でも、答えを握ったままじいちゃんは天に召されたわ。それなら私が好きなように受け取ってもいいんじゃない?」

「そんなの、」

詭弁だ、どこかに破綻があると思ったが私の意識はそこで絶たれた。混濁の間際に見えた姉の表情は―――。

 

翌朝荘厳な霊柩車を見送り、火葬の後骨を拾う中でも当然祖父から解答を聞き出すことはできなかった。

しばらくすると私の頭の中で燻っていた煙も晴れ【いつも通り】を取り戻したのであったがふとしたときに祖父の言葉が過ぎることはあった。それでも私は私の選んだ私の殻に籠ることを選ぶことにした。姉の弁に納得したわけでもまして感化されたわけでもないが、結局私にはこれしかないのだ。祖父の真意がどこにあったのかは向こうで聞くことにして今は今を生きるほかないと、解を出せない問答をあの世まで先送りにして。

 

 

 

〇〇〇

 

 

 

一方の祖父は遥か彼方から孫たちの様子を見て困り果てていた。具体的には、祖母に何年も説教され続けており、現世で不撓不屈を誇っていた彼も流石に心が折れかけていた。

「アンタが意味深なこと言うからあの子たちが深読みして悩んどるんやない!!」

怒髪天を貫き人工衛星を墜落せしめんとする勢いの祖母は祖父を雲の上に正座させていた。

「面目次第もなか...。でも、昔っから【カッコよか爺さん】に憧れとったっちゃん。孫に何か深い言葉を言い聞かせて後々ジジィのことを思い出してくったらそんとき俺の背中はさぞカッコ良く見えるやろが?」

そう、祖父は高祖父の貫禄あるカッコ良い背中を見て育ち自分もやがてはそんな爺さんになりたいと思い年金をもらい始めたのだった。格言をもじりそれっぽい何かを伝える技法は高祖父から祖父が授かった隔世一子相伝の適当貫禄術であった。

「この、大馬鹿が!!孫ば困らせて何がカッコよか爺さんたい!今からでも地獄に堕ちて詫びらんね!」

祖父の言葉に意味などなかった。意味ありげな言葉であれば何でもよかったのである。哀れな孫たちは思うがままに生きつつも時々、そんな爺さんの言葉を思い出さずにはいられない。ジジィの宿願は果たされたが、同時にジジィは地獄に堕とされた。その時ジジィは思い出したのである。自らが高祖父に言い聞かされていた言葉を。

 

「『言うも言わぬも花は散る』ジジィめ、どうあっても俺が地獄に落ちることを知っていたんか!?」

 

地獄に堕ちながらジジィはジジィ^2に悪態をつく。それを天よりも高い天上から高祖父はクツクツ笑いながら見ていた。

「はは、齢百六十を前にして欣快の至りよ。あのバカめ、ワシが考えてそんな言葉を聞かせていたとでも思ったか!」

*1:当時は母^1ではないか?というのは愚問である。将来2乗3乗になるなら元からそのポテンシャルを秘めているのだから。

*2:叔父は天才だったので普通に弾けた。

『洛中百鬼夜行劇』第4章「跳梁跋扈シャトルラン」

洛中。

 

 祇園四条の最深部に【バターナイフ】という極めて怪しげなバーがある。実際のところそこはアヤシイなんて生半可なものではなく何の心得もなく入り込んでしまったら最後、生きて翌日の朝日を拝めることはそうそうないといわれる此の世と地獄の境界線である。それでは一体何者がその魔境で晩酌を飲み交わしているのか。店長のバターナイフ氏に勧誘された者、洛中で悪名高きならず者、俗世に居場所を失った者...いくらかのパターンがあるが彼らはみな【人間を辞めた】という共通点を持っている。獄卒とよろしくやっていくには此の世に未練があってはならない。そもそも人間を辞めている彼らにとって人間は淘汰すべき対象であり、両者がぶつかり合って平穏無事に済むはずがないのだ。

 

 その日、苗田は名前のある怪物から呼び出されていた。彼らは京都大学の同級生以前に高校の同窓であり、高校時代に深いつながりはなかったものの大学入学以降に多少のコンタクトがあったので双方にとって数少ない大学の知り合いという関係にあった。さて、呼び出された苗田には用件も伝えられなかったが特にこれといった用事もなく部屋で電気もつけず年齢制限付きゲームをしているだけだったので誘いに従い集合場所に出向くことにした。

「っつっても四条か、遠いなぁ」

ボヤきながら自転車を走らせる。京都市内のバス代は基本的に任意の区間で一回の乗車あたり230円であるがそれは苗田にとって重大な出資であった。自宅から四条界隈に行くためだけにそんな身銭は切れないとして彼は鴨川西岸の砂道を壊れかけの自転車で駆け抜け四条大橋の橋脚の側へと違法駐輪した。

 自転車を降り橋を登ってすぐ、合流場所の四条河原町交差点南東に辿り着く。夜の帳が降りきった午後8時、待ち合わせ時刻の7時半はとっくに過ぎていたが案の定怪物は現れていなかった。苗田は風流のフの字の欠片もない不格好なアニメTシャツで周囲に威圧感を与えながら中秋の名月を見上げることもなくスマホをいじって約束の男を待っていた。10分後、メタルバンドのギタリストを意識したかのような爆発的寝癖と命の危険をも感じさせる腐乱臭を携えた浮浪者がどこからともなく現れ、京都の要所で人が溢れかえっていたはずの空間一帯から人間が雲散霧消し名月も雲隠れした。

「.......来たか」

「すまねェ、寝てたわ」

呼び出しから予定時刻まで数時間もなかったというのに性懲りもなく惰眠を貪っているというのは通常であれば自身に対する愚弄だと糾弾して然るべき無礼であるが、相手が相手である。苗田は特に責め立てることもせず「そう」と受け入れた。

「それで、何の用なんや」

「ついてきてくれ。会わせたい人がいる。悪い話じゃァない、今晩はその人の奢りだ」

「やったぁ」

苗田は消耗が激しく残り少ない言語野で最後の【奢り】の二文字だけを受容し同行を決定した。いつの時代も無銭飲食とは有り難い話だ。とりわけ、つい先日ソーシャルゲームに一カ月分の生活費を投資して極貧生活を強いられていた苗田にとっては渡りに船であった。

 

 怪物について歩く道中も苗田はスマホをいじり続けていたので一体どこを歩いてきたのか分からなかったが気が付くとそこは此の世のものとは思えない不思議な雰囲気を湛えた場所だった。

「ここは?」

「聞いたことくらいあっだろ?【バターナイフ】だ」

「.......あぁ、そういうことか」

苗田は言語野こそ破壊されていたが腐っても京大生、状況理解能力はその辺の人間より長けていた。彼は自分が【バターナイフ】に勧誘されているということを、それが【人間界との離別】という有名事実とともに把握した。

「まぁ、未練もクソもないわ。メシ奢ってくれるなら何でもいいよ」

「普通抵抗するもんなんだけどな、さすが適性バッチリだわ」

そう言うと怪物は重々しい扉を蹴破った。

 

 それから何が起こったか、一切の記憶がない。目を覚ますと苗田は眩しい朝日に照らされてなぜか鴨川デルタに転がっていた。

「えぇ......」

正式に人間を辞めて初めて迎えた朝の状況は到底理解できるものではなかった。自分が身に着けているのはパンツと濡れた靴下だけであり靴すらも見当たらない。周りを見ると自分の他にも同様に転がっているバケモノたちがたくさんいた。恐らく【バターナイフ】所属の奴らだろうと推察できるがその中に名前のある怪物の顔はなかった。スマホすらも手元になく今が何時かも分からないし自宅の鍵もないので帰ることすら叶わず途方に暮れているとデルタ西側の方から声がした。

「オウ、起きたか」

知らない声だ。一体何者かと身を起こして様子を見に行くと川の中で飛び石に引っかかる形でもたれている大男が声の主であった。その隣の飛び石には名前のある怪物が引っかかって寝ている。溺死か凍死しないのかと思ったがソレが彼らなりの睡眠スタイルなのだろうとその点に関しては追及しないことにした。

「あの、あなたは?」

「バターナイフだ。昨日はオマエ、スゴかったぞ。まぁ、後は鳥羽が面倒を......ウッッッ!!!」

バターナイフを自称した大男は話し始めたかと思ったところで嘔吐し意識を失い、引っかかっていた飛び石からズレて鴨川の水流に流されていった。彼は流されながら寝言で「厭離穢土!!」と叫んでいた。

「は...何だアレは...」

唖然とする他ない苗田は再び何の情報も得られない閉塞に戻り虚無感に襲われながらジワりジワりと高度を上げる太陽を見つめていた。周りのバケモノたちがときたま寝ゲロを散らかすのを眺めながら一体これからどうなるんだと絶望しているとデルタの北側から一人の青年が歩いてきた。

「うっわ、ヤベぇな今日も。...大丈夫か?」

声を掛けてきた青年は服を着ていれば靴も履いていた。明らかに人間だ。

「お前は誰やねん。これは何なんだ、俺はどうなる」

苗田はぶっきらぼうに疑問と心配をぶつける。

「鳥羽だ。【バターナイフ】所属ではないがちょっと繋がりがあってな、アンタへの多少の説明責任を代理する」

そう言うと鳥羽という男はTシャツとスマホ、そして財布を投げる。

「お前のだ。靴とズボンは四条の店に残ってなかったから残念だが回収できてない。たぶん川に投げ捨てたか投げ捨てられたんだろうな。聞いた話だがお前は祇園の方でしこたま飲まされた後にバケモノどもとここに来て暴れ狂ったそうだ」

穴の空いた記憶を補完される。本当に何一つ心当たりがないが今まさにここにいることが彼の発言の信憑性を高めていた。

「貴重品は助かるけど...。いつもこんなんなのか?」

「そうだな。【バターナイフ】ってのはそういうもんだ。ところで【シャトルラン】もやったって聞いたが、お前、足を怪我してないか?」

足?と苗田は疑問が浮かぶが意識を自らの両足に集中させると途端に痛みが走った。

「ッッ!?!?」

慌てて靴下を脱ぐと足の裏は血まみれであった。異常事態の連続でアドレナリンが出ていたせいか全く気付かなかったが擦り傷とは言えないようなそこそこ深いケガを負っていた。

「やっぱそうなってるか...。まぁ、俺にできるのはここまでだ。あとは病院行くなり自分で何とかしてくれ。じゃぁな」

最後にネガティブな新事実を告げて鳥羽は去っていった。新たに足の痛みを備え、靴もないこの状態からどうしたものかと思案したがここで苗田の頭に妙案が降り立った。

「郷に入っては郷に従え、か」

かくして彼は周りのバケモノたちと同様今しばらく寝続けることにした。起きたら傷も塞がってるだろう。

 

 再び目を覚ますとどこかの室内であった。起き上がると横に名前のある怪物がいた。

「おー、生きてたか。オマエ、足がズタボロだったから川に流して祇園まで運んだんだが意外と耐えるもんだな」

怪物は開口一番ヘラヘラ笑いながら空恐ろしいことを言ってのけた。言われてみると寒気がする。まぁ風邪なんていつか治るしどうでもいいが。

「てことはここは【バターナイフ】か」

「おゥ。休憩室に転がして足のケガには酒ぶっかけたりして処置したから多分もう歩けっぞ」

足の方を見遣ると包帯でグルグル巻きにされていた。確かに痛みは引いているし大丈夫なんだろう。ほんまか。

「昨日、何があったか聞かせてほしい...もう意味が分からん」

「あァ、そうだろうな。大体は鳥羽から聞いただろうが、祇園では適当に飲み散らかして鴨川行ってからはお前の歓迎会ってことで色々派手にやったぞ。お前もノリノリだったし【シャトルラン】っつって裸足でデルタを東西またいで走るやつとかお前が一番早かった。そのせいで足は逝ったみたいだがな」

「ありえん」

率直な感想を述べる。しかし事実は変わらない。もともと人間界に未練などなかったが正式にソコを離れるとはこういうことなのかと改めて苗田は噛みしめた。とはいったものの毎日虚無に時間を費やし鬱病鬱病を重ねる日々よりは遥かに退屈でない非日常を享受できたという見方もできる。いずれこういったイベントにも体が慣れていくことを考えたら無銭飲食も踏まえると悪くはないのではないか、と苗田は前向きに捉えることにした。そうでもしないと到底やっていられないからである。

 

 かくしてそれなりの怪我を負いながらも【洗礼】を生き抜いた苗田は【バターナイフ】へ入会し人権と引き換えに毎晩無銭飲食を貪る権利を得た。前者をとうに失っていた彼にとって今回の出来事は足のケガを投資したハイリターン案件となった。

 

〇〇〇

 

「同期が2人も入っちゃうなんてなぁ...」

鳥羽は苗田に貴重品を返した後、百万遍のカフェに外面を呼び出し今回の件について話していた。

「確かに苗田は人間辞めつつあったけど、まさかバターナイフ入りするなんてね」

苗田と同じ学科で交流のある外面も今回の事件には驚きを隠せないようだった。

「苗田は俺を知らなかったようだけどあいつも俺らの高校同期。これ以上バケモンと関わり合いになるのは御免なんだが」

鳥羽は名前のある怪物つながりでバターナイフからしつこく勧誘されていることに辟易していた手前、さらに接点となり得る存在が浮上したことを憂慮していた。

「まぁまぁ、仲良くやっていこうよ」

外面は知人の立場がどうなろうと角を立てずに済ませたい方針らしい。鳥羽は、そんなんじゃいずれ割を食うぞと指摘しようとしたが外面のポリシーを尊重してやめておいた。

「...いずれバターナイフは戦争を起こす。そうなったら俺は人間サイドで逃げるがお前はどうだ、外面」

「んー、俺もだいたい鳥羽と同じだよ。でもどっちに付くとかは苦手だしできる限り怪物や苗田にも協力したい」

「そうか」

京都の人類が大きく二手に分かれ、火花を散らして数十年。日々大小さまざまな摩擦が起こっているが、ここのところ段々とその規模が拡大していることを誰もがその身に感じつつあった。酔生夢死を謳い牧歌的生活を望む人類と、そうはさせるかと面倒ごとを引き起こすバケモノたち。彼らの全面衝突の日は刻刻と近づいていた。

『洛中百鬼夜行劇』第3章「怪物レコンキスタ」

鳥羽(トリハ)という名で知られた男子大学生は洛中きっての麻雀打ちであった。少しでも時間があったら麻雀を打とうとするきらいがあり当然大学にはろくに行かず周りには基本的に麻雀仲間しかいなくなったのも仕方のないことであった。

鳥羽は大学には行かないものの、その辺の反社会大学生と大きく違って日付の変わる前から眠りにつき朝早くから起きている。今日も6時半に起き、8時頃には朝の散歩という超健康的習慣を実践していた。しかし彼にとってこの散歩には朝日を浴び体を動かす以上の意味があった。

「うんうん、今日もかわいいなぁ!」

思わず声を出してしまうほど彼が愛おしいと思って物陰から凝視しているのは京都では珍しい登校中の小学生である。珍しいのになぜ彼が遭遇しているのかといえば、彼が小学校の通学路を調べ、わざわざ出向いているからである。見つかれば間違いなく不審者出没情報として一帯の保護者一同に警告のプリントが配られ警察も周辺警備を強化すること請け合いであるが、鳥羽はすでに前科一犯、知り合いから隠密機動術を教わり見つからないように可及的細心の注意を払っていた。可及的と言ったのは、真に細心の注意を払っていれば「今日もかわいいなぁ!」などと口走らないだろうという指摘への配慮である。

朝の日課を終えると鳥羽は自宅へ戻らずそのままバスで移動する。目的地は百万遍交差点にある雀荘【あうあう】。ここは鳥羽の行きつけの雀荘であり、メンバー(雀荘における店員のこと)のほとんどは若い女性で彼女たちも常連の鳥羽のことを気に入っていた。それもそのはず、平日の朝に開店時間すぐに来る客は鳥羽くらいのものでそういう時にはメンバー3人と鳥羽で打つので一緒にいる時間がかなり長いのだ。今日もその例に漏れず麻雀を打ちながら鳥羽はメンバーと話していた。

「鳥羽くんさ~、大学はいいの?」

そう尋ねるのは【あうあう】の女性店長である。自分とさして変わらない若さにして雀荘という難しい店を経営する実行力と手腕はどこで鍛えたものだろうかと鳥羽は常々疑問に思っていた。

「いいんだよ。っと、ロン。5200」

今日は水曜日、彼の時間割にはしっかり講義が入っているはずだが彼は潔くそれらを放棄していた。

「わぁ、やられた。ラスト、清算おねがいしまーす」

今日最初の半荘は鳥羽のトップだった。そしてちょうど一区切りついたところで鳥羽の携帯が鳴った。

「あ・・・ごめん、ちょっと抜けていい?」

「いいよいいよ、鳥羽くんしかお客さんいないんだし」

「すみません」

そう言って鳥羽は電話に出る。知っている相手―――名前のある怪物からだった。

「もしもし、こんな朝早くどうしたんだ、怪物」

「おう、やっぱ朝早いのな。それが少し困っていてな...。昨日も例の場所で飲み散らしてたんだが、バターナイフが二日酔いの状態で街に放たれちまった」

「ウソでしょ?」

「俺も信じたくねーけど本当だ。今も暴れて道行く人間をハッ倒して回ってる」

通話相手の方から悲鳴とサイレンのような音を聞いた鳥羽はどうやらバイオハザード発生は事実らしいということを飲み込んだ。

「...警察は?」

「アレが警察で止まるかよ、銃弾もあの腹で受け止めてる」

「ひどいな。で、今どこに...」

そこまで言ったところで鳥羽は事態を理解した。パトカーや救急車のサイレンがけたたましく鳴り響く音が携帯の向こう側からだけでなく直接聞こえ始めていた。

「マジか...。ごめん店長、今日はもう帰る!」

「えっ、どうしたんですか?って外が騒がしいような...なんだなんだー?」

「とにかく失礼します、また明日来るから!」

「う、うん。待ってるよ、外なんだか大変そうだから気をつけてね」

「ありがとう」

【あうあう】を出て百万遍交差点に来るとそこは地獄であった。十字路の北からは消防車、東からはパトカー、西からは救急車、そして南からは京都の街が手塩にかけて育てた怪人【バターナイフ】が疾風怒濤の快進撃を為していた。迷惑がる学生、逃げ惑う一般人、面白がる野次馬、騒ぎに乗じて交差点の中央で『お願い!シンデレラ』を熱唱するさすらいの音楽家、それら全てが入り乱れ交差点周辺は大混乱の機能停止と相成っていた。

唯一我が道を思いのままに進んでいたのはバターナイフその人(?)である。「かかってこい人間どもォ!!」というようなことを叫んだり吐いだり忙しそうだが足取りはしっかりとしており一歩ごとにコンクリートの舗装路に足跡を残していた。その重戦車のような人型の怪物に対し哀れな人類は為すすべなく後退を強いられていた。鳥羽は電話で居場所を聞いて名前のある怪物と合流した。怪物も怪物で上着が酒だか何だかでビショビショだったがそれには触れないことにした。

「それで、アレをどうやって止めるっていうんだよ!鴨川の水、麻雀の賽の目、バターナイフの二日酔いって言うだろ?どうしようもねぇ」

鳥羽は至極真っ当な意見を述べた。

「まぁそうだが一つ試してほしいことがある」

そういって名前のある怪物は説明し始めた。

「最近アレが特に推してる演者がいる。その音源を流せば我に返るんじゃないか?お前はその音源持ってるからお願いしたい」

「なるほど、猶予もなさそうだし試してみるか」

鳥羽は怪物の提案を理解し音源を準備した。さっそく警官隊をバッタバッタとなぎ倒すバターナイフの方に向かう。依然としてあの重戦車は止まる気配を微塵も見せていない。

「おいバターナイフ!こっちだ!」

鳥羽が大音声を上げると警官隊たちが「危ないから下がりなさい!」と制止するが危ないのはお前たちも一緒だろうと鳥羽は聞き入れない。しばしば押し問答をしていると鳥羽の側から一人の男がヌッといきなり姿を現した。

「よっす鳥羽。話は聞いた。これ、拡声器パクってきたから、使えば?」

言葉の主は黒服【クロフク】という男だった。鳥羽や名前のある怪物の旧友で同期にして隠密機動の使い手である。名前に違わず全身を黒服に包み危険な雰囲気を放っているが普段は存在感を消しているので怪しまれるというようなことはない。

「お前、どうしてここに」

鳥羽は突然現れた黒服に驚いた。

「まぁ、なんとなく。それじゃ」

そう言い残すと黒服はスタスタと西方へ帰っていった。鳥羽は「何なんだアイツは」と悪態をつきながら自分のスマホを黒服が遺していった拡声器へと繋ぎ、件の音源を再生した。

「聞こえるか、バターナイフ!!」

鳥羽にはもはや祈ることしかできなかったが、曲が始まると確かにバターナイフの進撃が減速した。Aメロ、Bメロと展開していく曲にバターナイフは耳を傾けているようだった。そして、訪れた約束のサビ前。

「イェッッッ!!!端午!!!こどもの日!!!!」

怪人の割れんばかりの咆哮は洛中全土に響いたかのように思われた。その圧倒的声量に周囲の人間は全員気絶しており、このことを予見し耳栓をしていた鳥羽と名前のある怪物だけが意識を保っていた。

「...ここぁ百万遍か、バケモン」

ワンコーラスが終わる頃にはバターナイフは正気を取り戻していた。彼は近くに来ていた名前のない怪物に話しかける。

「バケモンはあんたッスよ、バターナイフさん。どんだけ暴れ散らしたと思ってるんスか...。ま、早いとこ逃げましょ」

名前のある怪物はどこから用意したのか小型バイクを転がしていた。

「そうだな...。んで、お前が曲かけて収拾つけたんか、鳥羽」

「はい、まぁ」

鳥羽はバツが悪そうに眼を逸らして答える。

「助かったわ、やっぱお前もウチに来いや」

バターナイフも自分の引き起こしたことを確認し、それを制止した鳥羽の活躍に感謝していたようだった。

「それだけは勘弁です。前にも言った通り俺にはもったいない。それに俺はまだ人間界に未練があるんで」

「またくいな橋でマズい飯食ってから考えるか?」

京都拘置所は京都駅からまた少し南に進んだくいな橋のあたりにある。鳥羽は以前そこに立ち入ったことがあった。バターナイフともそこで初めて会って気に入られ、鳥羽としては迷惑に思っていた。今回の騒動を見れば分かるように怪人と関わり合いになるのは何かと危険だからだ。しかしバターナイフは京都中に顔が効くし強力なコネクションであることも事実で、さらには名前のある怪物という共通の接点もあったので鳥羽もときたまバターナイフと顔を合わせていた。

「あそこにはもう行きませんよ...。それと、とにかく【バターナイフ】には入りませんから」

「この俺がしつこく勧誘することなんてないんだがなァ、おもんな。まぁええわ、帰っぞバケモン」

「だからバケモンはあなたの方ですって」

鳥羽の頑なな姿勢にバターナイフは折れたようで、名前のある怪物とともにバイクで去っていった。鳥羽は「あの巨体が乗ってもパンクしないんだなぁ」とタイヤの強固さに感心しながらその後ろ姿を見送っていた。視界から消える前にバイクは転倒して名前のある怪物が「イッデェ!!」と叫ぶ声とバターナイフの痛くも痒くも思っていなさそうな高笑いが聞こえてきた。

 

京都に住む者は大きく二つに分けられる。人間か、人間じゃないか。人間じゃない者にもいろいろいるが大方は人間から白い目で見られるような者ばかりで、人間じゃない者の方も人間をとっちめてやろうという思想の者が多い。今回のような騒動で浮き彫りになる両者の争いは小さなものを含めると毎日のように起こっており、京都の領地を綱引きのように自分のものだとグイグイ引っ張り奪い合っている。現在こそ形式上人間の領地がほとんどであるがかつて京都は妖怪すなわち人間じゃない者が跋扈しており、現在においてもその当時のような百鬼夜行を再現しようという一派が存在し祇園迷宮の最深部は彼ら怪物の巣窟となっている。バターナイフが百万遍まで進撃したのも怪物たちのレコンキスタの一つであり、もっと大規模な戦争が起こればいつの日か人間が彼らに領地を明け渡す日が......来ないことを祈ろう。

『洛中百鬼夜行劇』第2章「泥になった男」

京都市内に存在するほとんどの交差点の名前は【三条河原町】のようにそれを為す縦横の通りの名前に由来する。しかし中には、ただでさえ日本語が通じないがためにごった返している迷惑観光客たちをさらに混乱させようと規則に従わない名を冠した捻くれ交差点たちが存在する。

 

捻くれた生徒を輩出することに滅法秀でている京都大学はそのメインキャンパスを【百万遍】というみょうちくりんな名前の交差点付近に構える。交差点の名前が捻くれていればそこを往来する人間も捻くれるのも当然の理というわけだが、とりわけ夜になると月の狂気とアルコールの副作用で日本語が通じなくなっている捻くれ京大生がゴロゴロ転がっており危険である。触らぬ神に祟りなし、百万遍近寄るべからずである。

 

ろくなやつがいない百万遍だが、そこから少し南へ進んだところに苗田(ナエタ)という男が住んでいる。もう名前からとことん萎えているのだが彼はかの名前のない怪物にも引けを取らない壮絶な人生を送ってきたことでそこそこ知られている。もはやこの世に大した未練もなさそうに今日も今日とてアニメのかわいらしい女の子が描かれたバッグを肩に下げ、百万遍と自宅の中間地点に位置する学生食堂【ルネ】で一人イヤホンをつけアニメを見ながら昼食を取っていた。そこから発される負のオーラは並大抵のものではなく、混雑期であろうとも彼の周囲10席ほどには人払いの結界が張られていた。

 

「お、苗田~」

そう声を掛けたのは苗田と同じ学部学科の同級生であり、室内にも関わらず帽子を被る奇抜なファッションをしている外面(ソトヅラ)という男だ。しかし外面が数度呼びかけても苗田はアニメに夢中で気が付かない。いよいよ呆れた外面がその肩をポンと叩くと苗田は痴漢にでもあったかのようにビクっと可愛くもない反応を見せたかと思えば黒服の顔を見るや否や「なんだお前か」と呟きそのままイヤホンをつけなおした。こんな態度を取られては流石の外面も「なんだこいつは」と思ったらしく、それを口にすることはなかったがTwitterに事のあらましを文才豊かに投稿した。

さて、この二人は京都大学工学部物理工学科在籍の2回生であるが物理工学部の割に物理学基礎論Aの単位を1年半経っても取っていない体たらくであり学科の恥さらしである。そもそも苗田に至っては入学2ヵ月も経たないころに講義中に何を思ったか服を脱ぎだしさらには18禁ゲームの18禁要素のシーンをスピーカーで垂れ流しながら授業を受けるという前代未聞の奇行に走り案の定通報され教務課から厳重注意を受けたほどの阿呆であり学科はおろか大学の、あるいは人類の恥さらしなのだが、当の本人は京都の瘴気に中てられて脳内の思考領域が狭められているせいもありそんなこと粉微塵も気にかけておらず毎日のように大学食堂を威風堂々とフルグラTシャツで闊歩していた。そんなことだから当然学科内にろくなコネクションがない苗田に対して、外面は類稀な八方美人式コミュニケーション術を以てして多方面とつながりを持っており、上手いこと交友関係を保つ傍ら情報収集も怠らずそれを苗田や他の身寄りのない学科の友人に渡してあげたりもしていた。このように極めて良い性格をしている彼だがそれだけには留まらず天は彼に【ツイートセンス】というさらなる才能を与えた。これは文才の一種であるがTwitterに依存しがちな大学生にとっては極めて有用なものであり【いいね】という平成の承認欲求を効率的に満たせられる。そして彼もまた京都の瘴気に中てられて心の余裕が狭められようとしているときにはこの才能を駆使し心の平静と安寧を取り戻すのだ。

 

「よう」

外面が着席して10分は経ったかという頃、ようやくアニメを見終わったらしい苗田がイヤホンを外して突然話しかけてきて外面は面食らった。

「いきなり話しかけてくるなよ、びっくりするでしょ」

「お前もいきなり肩叩いてきただろ」

外面はそれとこれとは少し違うだろうと思ったが自分の不服と苗田に納得してもらえるような説明をする労力とを比較した結果、がんばって反論する必要はないという結論を導き出した。外国語の単位もろくに揃えられない上に日本語までもが通じなくなりつつある苗田に対してむやみに会話を試みるのは得策ではないということを彼は経験から理解していた。

「...それで、今期のテストはどんな感じ?」

「お前から資料をもらったやつは何とかなる。もらえてないやつは、何も情報がないから、無理」

「そっかぁ」

大学生にとって同学科の友人というのは想像よりも重要なもので、特にろくに大学に出向かない反社会的生徒にとっては友人の助けのあるなしはそのまま単位の有無に直結する。この苗田は怪物同様社会に向いていない生き物である上に学科の友達も目玉の数くらいしかいないため、当然ろくな単位も取れない状況が続いておりいよいよ留年が避けられないものになりつつあった。本人の弁は「プラス1年は仕方がない」とのことだが周囲の人間は彼がプラス1年で卒業できるとは全く思っていない。

「テストもだけど、今から引くガチャも多分やばいなぁ」

「え、今から引くの?楽しみだなぁ」

苗田はここのところソーシャルゲームにも入れ込んでいた。そして本日、とあるイベントのガチャが始まるとのこと。目星となるキャラクターを引けるかどうか、一体どこまで費やすというのか。ただの電子データに対して異常なまでの額が振り込まれ経済の車輪が勢いよくグルグルと回される。その渦中に苗田も巻き込まれる所存らしく、今まさしく一回目の【10連】が回された。

「...まぁ最初はね」

どうやら失敗だったらしい様子を見て外面はこれから起こることを予感した。

 

「......ありえん。うっそでしょ?.......はぁ~~~~~萎えた~~~~~」

結果として、苗田は10万という大金を注ぎ込んだ挙句に目的の品を引き当てることができなかった。やめどころを見失い月間の生活費を超える額を投げうっても勝ち取れなかった勝利。この絶望的敗北の過程、そして今もなお他のプレイヤーたちが彼より遥かに少ない課金額で続々と引き当てていく様子をTwitterで確認できることがより一層彼の気分を沈下させた。薄れゆく意識の中で苗田は今夜から何を食べて生きていこうかと考えていた。

 

「アッヒャッハッハ!!!10万?バカすぎワロタ、おもしれェ!」

苗田が10万を失った日の夜、洛中の不思議情報網を伝って知ったその話を酒の肴にして酒場で暴れ狂う大男がいた。彼の通り名はバターナイフ。酔った勢いでバターナイフを丸呑みしたが食道や内臓は傷つかず「出てくるときだけ少し痛かった」と言い放った逸話を持つ怪人である。

「なァおめーら!苗田とかいう男、ウチに来る素質は充分あるとは思わねェか?」

怪人バターナイフが呼びかけると酒場にいた酔っ払いどもは口々に「いいだろう!」「真人間を淘汰しろ!」「京都に人間必要なし!」などと叫んだ。

そんな中、その場に居合わせた名前のない怪物が口を開いた。

「バターナイフさぁん!!」

席を立った弾みで手にしていたジョッキを床に落とし割る怪物。それに目もくれずバターナイフの方へ歩いていく。

「んだバケモン」

「そいつ、2回生って言いましたか?」

「オゥ。オメー以来だな、未成年でウチに来るなんてヤツは」

「そうッスね。まぁ、洗礼とかは任せてもらっていいスかね」

「好きにしろぃ」

その言葉を最後にバターナイフは意識を失うと同時にゲロを吐き始めた。

 

ここは祇園迷宮の最深部にある酒場【バターナイフ】。人間を辞めた怪物たちの住処。