とまれかうまれ、とく破りてむ!

行き場を失った物語の墓場

リンドウの夜想

 

 

人生の中にはどうしようもないことが数多くある。基本的に私にとっての物事というのは認識する頃にはどうしようもなくなっている。

 

そう、どうしようもなかった。

 

 

彼女がその白い棒を美味しそうに咥える様子は子供がキャンディーを舐めているのと大差ないなと私は思った。

「そんなにおいしい?ソレ」

「うん、おいしい。とっても甘いんだよ。コレがなきゃ私はダメになる」

「ソレがあるからダメになったんでしょ」

全く、と私は溜息をついた。私が吐き出す白い息は冬限定の水蒸気だが彼女の口から漏れる吐息は毒を孕んだ黒い白煙だ。

「でもこの匂い好きなんでしょ?」

彼女はカラカラ笑いながら私に向かって煙を吹きかけてくる。私はそれを振り払えない己の弱さを呪った。窓の奥から覗き込んでくる煙たい夕焼けが染みて、思わず私は目を瞑る。

「ほんと変なの。匂い好きなら吸えば良いのに、ほら」

これ、ほんとに甘いんだよ~と言う声に促されて薄目を開くと彼女は火のついたそれを私に渡そうとしていた。危ない。

「それとこれとは違うって何度も言ってるでしょ。私は吸わない。そもそも、目の前で吸わせてあげてるだけでも感謝してもらわなくちゃいけない立場よ?」

窓の外から吹き込む風はこの身を切り刻もうとしているかのように鋭く、冷たい。一月の夕暮れだというのに、私たちの会話のほかに物音一つしないこの白い部屋には空調の類すら備え付けられていなかった。

「コレを知らないまま死ぬのはもったいないって。私みたいな人間ですら日々に鮮やかさを感じられるようになるし嫌なことがあっても頭の中で煙が隠してくれる。前時代的だの健康を損なうだの言ってるのは恵まれた人ね。そういう人たちが妬ましいとは感じないけど、自分がいらないからって他人にまで不要論を押し付けるのはナンセンスよ」

「またそんな卑屈なことを言って。毒を吸わされるか詭弁を吐くかしかできないあなたの口がかわいそうになってくるわね」

「ひどーい」

「それに、毒の味に満足したからってそう簡単に死なれると困るんだけど」

「素直にさみしいって言えば?」

「私はこれでも医者よ?感情論を抜きに患者には生きてほしいわ」

この隔離施設には元から医者は一人しかいなかったが、今となってはもう患者も一人しかいない。難病を患った彼女たちであったがその最期は皆笑顔を絶やすことはなかった。この施設は辛く苦しい闘病生活のその一歩先にある。あるいは私は殺人者とも呼べるのかもしれないと昔はよく思い悩んだものだ。

「立派なことを仰っているけれど、ならどうして私からコレを取り上げないの?」

「信号が少し赤いくらいで止まるなんて面白くないでしょ」

「私、信号なんて見たことない」

「...あなたを愛してるからよ」

「.........そう」

夕日が沈み、空が赤と青を綯い交ぜにしたようなあの不気味な色になっていた頃、しばしの静寂が私たちの元無菌室を支配した。

「先生、私も【時間】なんだね」

まっすぐに私を見つめる彼女の目は煙越しに見ても一点の曇りもなかった。その双眸には得体の知れない感情の渦がぐるぐると輝いていたがそこに恐怖らしきものは見当たらなかった。

「不思議だよね。近くでみんなの最期を見すぎたせいかな。最近、【そろそろ】だなって直観が湧いてきて、それが外れているとは到底思えないんだ。先生もそうなんでしょ?」

私は彼女の言葉を否定できなかった。この施設で暮らして数年、ついに私たちは死の足音が聞こえるような錯覚に陥るほどに繊細な感覚を手に入れているような気がしていた。その感覚は昨日か今日がその日だと私に告げていた。

「今日なのかも。先生、私、怖くはないんだ。さみしくもない。向こうには友達がいっぱいいるんだから」

「そうね。再会のお土産に思う存分あなたの好きな箱を持っていくと良いわ」

「それ最高。何カートンあれば足りるかな」

「嫌がる子に強制だけはしないって約束して」

「しないよ。約束する」

夜が降りてくる。いつのまにか紫色に染まった星空は彼女を優しく見守っているようだった。その夜はきっととても寒かったのだろうけれど、楽しい話に花を咲かせていた私たちは寒いだなんて一言も言わなかった。本当に、驚くほど暖かったから。夜は深くなる。どこまでも紫色は深くなる。満天が彼女を包みこむ。彼女の手が私の手の中で鼓動を示す。夢を見ているようだと彼女は言った。ありがとうと彼女は言った。またね、と彼女は言った。私はこの夜を終わらせてたまるかと思った。

 

 

朝が来ても目を覚まさない彼女を前に私は驚いたり嘆いたりはしなかった。

「おつかれさま。...よく頑張ったね」

彼女の頭を撫でようとしたところで私は自分の手が動かせないことに気がついた。とっくに冷たくなってしまった手が私の手を握って離そうとしなかったからだ。

「なんだ、やっぱり少し怖かったんでしょ」

私は丁寧に彼女の手をほどいて、再びその手を握りなおす。大丈夫だよ。言い聞かせるように呟いたその言葉は早朝の晴天に吸い込まれていった。その空はどうしようもなく青かった。

 

 

闘病時代以前の彼女については引き継ぎの際のカルテでしか知らないけれど、その苦労と努力は凄まじいものだった。普通の子供が耐えられるはずのない苦しみを前に彼女は10年近い年月を心折れることなく過ごしてきていた。そんな彼女が私の【箱庭】に移ってから一番初めに発した言葉は今でもよく覚えている。

「先生。私、タバコが吸いたいの」

彼女は肺を患っていたため当然そんなものは渡せない。ただ、カルテから読み取れる彼女の消費的な【生】への憧れも理解できた私は、知人に頼み特注でタバコ型の砂糖菓子を手に入れた。火をつけると焦げたような煙が出るがその正体は砂糖。味は当然甘い。何も言わず彼女に渡すと彼女はとても喜んでくれた。さすがに本物じゃないことくらいは分かっていたとは思うけれど、ついに一度もそのことについて私に質問することはなかった。私たちは二人とも、それが本物であるかのように振舞い続けた。

 

 

身寄りのなかった彼女のお墓を作っているうちに日中は終わってしまっていた。夜になって私は煙たい自室で打ちひしがれていた。

「ほんとはね、私こそこれがなきゃダメなんだよ」

空の彼女に向かって私は【本物】を掲げていた。一人でも患者がいるときは吸えなかったその煙で二つしかない肺を満たし、生を消費し謳歌する。とうとう終わってしまったのかと私はどうしようもない感情に苛まれていた。

「そう、どうしようもなかった」

こぼれた弱音を煙は煙に巻いてくれる。ただ煙だけが、私を巻いてうやむやにしてくれる優しさを持っていた。優しさからは焦げた砂糖の香りがしたような気がした。懐かしい気持ちが込み上げてきて、私はただひたすらに毒を吸い込んだ。

 

あの場所で、彼女は確かに紫煙を燻らせていた。